本多忠勝

日本の戦国~江戸時代の武将、大名、初代忠勝系本多家当主

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本多 忠勝(ほんだ ただかつ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将大名徳川氏の家臣。上総大多喜藩初代藩主、伊勢桑名藩初代藩主。忠勝系本多家宗家初代。本姓藤原氏通称平八郎(へいはちろう)。

 
本多 忠勝
本多忠勝像、良玄寺
時代戦国時代 - 江戸時代前期
生誕天文17年2月8日1548年3月17日
死没慶長15年10月18日1610年12月3日
改名鍋之助(幼名[1]→忠勝
別名平八郎(通称[1]
渾名:三河の鹿
戒名西岸寺殿前中書長誉良信大居士
墓所浄土寺(三重県桑名市
圓教寺兵庫県姫路市
良玄寺千葉県夷隅郡大多喜町
官位従五位下中務大輔
主君徳川家康
上総大多喜藩主→伊勢桑名藩
氏族本多氏
父母父:本多忠高、母:小夜(植村氏義娘)
兄弟妹:栄子姫長束正家室)
異父妹:女(中根忠実室)
正室:於久の方阿知和玄鉄娘・見星院)
側室:乙女の方(松下弥一娘・月量院)
小松姫真田信之正室)、もり姫(奥平家昌正室)、忠政忠朝、女(本多信之室)、女(松下重綱室)、女(蒲生瀬兵衛室)
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徳川四天王徳川十六神将徳川三傑として崇められた。

生涯編集

出生・初陣と初首編集

本多忠勝誕生地石碑(愛知県岡崎市西蔵前町

天文17年(1548年)、安祥松平家徳川本家)の最古参の譜代である安祥譜代の本多氏で、本多忠高の長男として[1][2]三河国額田郡蔵前(愛知県岡崎市西蔵前町)で生まれた[3]

天文18年(1549年)、父・忠高が戦死し、叔父・忠真のもとで育った。

幼い頃から徳川家康に仕え、永禄3年(1560年)13歳の時に桶狭間の戦いの前哨戦である大高城兵糧入れで初陣する[1]。このとき、同時に元服した[4]

永禄6年(1563年)の三河一向一揆に徳川方として参戦している[5]

忠勝が一次史料に現れるのは、永禄11年(1568年)の祝田新六に宛てて出された、家康の書状に対する副状である[6]。忠勝は新六の働きを褒め、懸命に取り成すので褒美のことは自分に任せてほしいと伝えている。この時期から家康への他の国衆の取次役を担っていたことが分かる。

徳川四天王としての武勲編集

今川義元が敗死し、家康が今川家から独立し、織田信長との清洲同盟締結後、忠勝は上ノ郷城攻めや牛久保城攻めなどに参戦した。永禄6年(1563年)9月の三河一向一揆では、多くの本多一族が敵となる中で、一向宗(浄土真宗)から浄土宗に改宗して家康側に残り武功を挙げた。永禄9年(1566年)には19歳にして旗本先手役に抜擢されて、与力54騎を付属される[7]。以後、忠勝は常に家康の居城の城下に住み、旗本部隊の将として活躍した。

元亀元年(1570年)の姉川の戦いにも参加し、家康本陣に迫る朝倉軍1万に対して無謀とも思える単騎駆けを敢行。そしてこの時必死に忠勝を救おうとする家康軍の行動が反撃となって朝倉軍を討ち崩した。この戦いにおいて忠勝は朝倉軍の豪傑・真柄十郎左衛門との一騎討ちで勇名を馳せた。

元亀3年(1572年)の二俣城の戦いの前哨戦たる一言坂の戦いでは偵察隊として先行し、武田本軍と遭遇。報告するために撤退するが、武田軍に追撃され、大久保忠佐と共に殿軍を務め、坂下という不利な地形に陣取り、馬場信春の部隊を相手に奮戦し、家康率いる本隊を逃がし撤退戦を無事に完了させた。この時に忠勝が着ていたのが鹿角の兜に黒糸威の鎧であった[7][注釈 1]。同年12月の三方ヶ原の戦いでは左翼を担い、山県昌景隊と戦い、撃退している。天正元年(1573年)の長篠城攻めでは9月に堀越で榊原康政等と共に武田軍を破り、獲得した長篠城に入り、城を守っている。天正3年(1575年)の長篠の戦い[4]、天正8年(1580年)の高天神城奪還戦にも参戦している。これらの合戦における忠勝の活躍は敵味方を問わずに賞賛され、家康からは「まことに我が家の良将なり」と激賞され、「蜻蛉が出ると、蜘蛛の子散らすなり。手に蜻蛉、頭の角のすさまじき。鬼か人か、しかとわからぬ兜なり」と忠勝を詠んだ川柳もある[8]

天正10年(1582年)、本能寺の変が起きたとき、家康は忠勝ら少数の随行とともにに滞在していたが、家康が京都に行って信長の後を追おうと取り乱したのを忠勝が諌めて、「伊賀越え」を行わせたという[9]。この時、帰路の途中の木津川で船に乗った際、渡し終わった船の船底を槍の石突で突き破り、追手が使用するのを防いだという[10]

天正12年(1584年)4月の小牧・長久手の戦いでは、当初忠勝は留守を任されたのだが、豊臣方16万の大軍の前に徳川軍が苦戦して崩れかけていることを聞き、忠勝はわずか500名の兵を率いて小牧から駆けつけ、5町(約500m)先で豊臣の大軍の前に立ちはだかり、さらに龍泉寺川で単騎乗り入れて悠々と馬の口を洗わせたが、この振舞いを見た豊臣軍は逆に進撃をためらい戦機は去った[8]。この豪胆な振舞いや活躍などにより、豊臣秀吉からも東国一の勇士と賞賛された[11]。また、織田信雄にも賞され、法成寺という刀を賜った。徳川氏が豊臣氏の傘下に入ると天正14年(1586年)11月9日(天正16年(1588年)4月とも[12])、従五位下・中務大輔に叙位・任官された[13]。天正18年(1590年)、家康が関東に移封されると上総国夷隅郡大多喜千葉県夷隅郡大多喜町)に榊原康政と共に、家臣団中第2位の10万石(1位は井伊直政の12万石)を与えられる[1]。江戸から遠くなっているのは、「譜代の将は敵が攻めてくる国境に配置する」との、家康の配置方針による。康政は北の真田氏上杉氏に対する備え、忠勝は安房国里見氏に対する備えである[14]。また川村優は里見氏に対する備えとみたうえで、上総国内の里見系・北条系国人層を分断、制圧する絶好の位置で、久留里・佐貫との連携プレーをする位置で上総国内の有力国人層の制圧が目的と分析している[15][16]。ただし、近年の研究では大多喜城が居城に定められたのは、天正19年(1591年)初頭ごろで、それまでの半年ほどの間は家康ではなく、秀吉の承認を経て同じ夷隅郡の万喜城(現在のいすみ市)を居城にしていたとされている[注釈 2][17][18][19]

関ヶ原から最期まで編集

関ヶ原の戦いの本多忠勝陣跡(岐阜県不破郡関ケ原町)

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、当初上田城攻略における対真田交渉を期待されていたが、途中東海道を進発することになり、東山道徳川秀忠隊を離れ、対真田交渉は嫡男の忠政に引き継がれている[20]。また忠勝自身も加藤貞泰との交渉において活躍をしている[20]。前哨戦ともいえる竹ヶ鼻城攻めや岐阜城攻めに参戦し、また石田三成重臣・島左近に敗れた中村一栄隊と有馬豊氏隊の撤退の手助け、吉川広家など諸大名に井伊直政と連署の書状を送って東軍方につける工作にも活躍した。本戦でも奮戦し、わずかな手勢で90にも及ぶ首級を挙げた。この功績により、慶長6年(1601年)、伊勢国桑名(三重県桑名市)10万石[21]に移されると、旧領・大多喜は次男・本多忠朝に別家5万石で与えられた[4][21]。これは一説に家康が忠勝に対してさらに5万石を増領しようとしたが、忠勝が固辞したために家康が次男に与えたとされている[22]。一方で、関ヶ原合戦後に忠勝は一国が与えられることを望み、家臣へ与える知行の目録まで作成して待っていたが叶えられず、訪れた阿部正次にこの話をした後に目録を焼いたとされる。

忠勝は桑名藩の藩政を確立するため、直ちに城郭を修築し、慶長の町割りを断行し、東海道宿場の整備を行い、桑名藩創設の名君と仰がれている。晩年は、戦乱の収束により本多正純などの若く文治に優れた者(吏僚派)が家康・秀忠の側近として台頭し[14]、忠勝自身も慶長9年(1604年)頃から病にかかるようになり、江戸幕府の中枢からは遠ざかっている。

慶長9年に先述のように病にかかり隠居を申し出るも、この際は家康に慰留されている。その後、慶長12年には眼病を煩い、慶長14年(1609年)6月、嫡男・忠政に家督を譲って隠居する[23]。慶長15年(1610年)閏2月には三河国田原で徳川秀忠が挙行した大規模な巻狩に同行した。同年10月18日に桑名で死去した[24]。享年63。この際に重臣の中根忠実梶勝忠両名が殉死し、忠勝の左右に埋葬された[12]。忠勝は臨終に際して「侍は首取らずとも不手柄なりとも、事の難に臨みて退かず。主君と枕を並べて討死を遂げ、忠節を守るを指して侍という(略)」という言葉を遺している[12][25]

人物編集

装具編集

大笹穂槍・銘「藤原正真作」(号・蜻蛉切、本多忠勝所用)、室町時代の作。個人蔵。
伝・本多忠勝所用の甲冑(黒糸威胴丸具足)、重要文化財、個人蔵(愛知県岡崎市・三河武士のやかた家康館寄託)[26]
  • は「蜻蛉切」。
    • 刃長43.8cmの笹穂型の大身槍。穂先に止まった蜻蛉(とんぼ)が真っ二つになったという逸話からこの名が付いた「天下三名槍」の一つに数えられている名槍。茎には「藤原正真作」の銘がある。正真は三河文殊派の刀匠だが、村正の子または弟子との伝承もある。
    • 柄の長さは当時通常の長槍は一丈半(約4.5m)だったのに対し、蜻蛉切は二丈余(約6m)だったという。晩年にはやはり体力の衰えが出てきたと見え、「槍は自分の力に合うものが一番」と言って槍の柄を三尺余(約90㎝)ほど短く詰めた[9]。現在は静岡県沼津市の矢部家が所蔵しており[27]岡崎公園にある「三河武士のやかた家康館」でそのレプリカを見ることができる[28]
  • は「鹿角脇立兜」。鹿の角をあしらった脇立は何枚もの和紙を貼り合わせて黒漆で塗り固めたもの。
  • 当世具足「黒糸威胴丸具足」[26]。自らが葬った敵を弔うため、肩から大数珠をさげるのが常であったといわれる。又、動きやすさを重視し軽装を好んだという。
  • 愛馬は「三国黒」で、後の二代将軍・秀忠より贈られた。関ヶ原の戦いで島津勢の銃撃により死亡した。

武勇編集

  • 生涯において参加した合戦は大小合わせて57回に及んだが、いずれの戦いにおいてもかすり傷一つ負わなかったと伝えられている[29][11][8][10][注釈 3]
  • 忠勝の名采配ぶりを見た配下の将達は、「忠勝の指揮で戦うと、背中に盾を背負っているようなものだ」と称えた[10]
  • 一言坂の戦いでの殿軍での戦いぶりを武田軍の小杉左近から「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」との狂歌の落書をもって賞賛された[30][7]。(「唐の頭」は当時徳川家中で流行っていた兜などにつけるヤクの尾毛の飾り物を指す)
  • 織田信長はその並はずれた武勇を武田征伐後、「花も実も兼ね備えた武将である」と侍臣に紹介した[7]
  • 豊臣秀吉には「日本第一、古今独歩の勇士」と称され、また、「東に本多忠勝という天下無双の大将がいるように、西には立花宗茂という天下無双の大将がいる」と勇将として引き合いに出された[11]
  • 関ヶ原の戦い終了後、福島正則は忠勝の武勇を褒め称えた。忠勝は「采配が良かったのではない、敵が弱すぎたのだ」と答えたという。
  • 戦場に出て敵と戦う時の槍働きは古今無双だったが、教練などでの槍術は甚だ不器用で戦場での忠勝を知らぬ人が見ると意外と思ったという(『甲子夜話』)。
  • 桑名へ移封後のある日、息子の忠政と小舟で巡視に出ている時に「櫂でを薙いでみろ」と言い、忠政が葦を薙ぎ倒したのに対し、忠勝は鎌で刈ったように切り取ってしまった。

逸話編集

  • 榊原康政とは同年齢ということもあり、仲が良く親友同士だった。天正元年(1573年)の長篠城攻めでは康政と武功を競い合っている。
  • 本多正信のことを快く思わず「佐渡守(正信)の腰抜け」「同じ本多一族でもあやつとは全く無関係である」とまで言い捨てている。
  • 長篠の戦いの時、逃げる武田軍が投げ捨てた旗を拾い、「軍旗を捨てるとは何事か」と嘲ったという[10]
  • 小牧・長久手の戦いでは、わずか500名の軍勢を率いて秀吉自ら率いる8万の大軍と対峙し、秀吉の家臣、加藤清正福島正則らが忠勝を討ち取るべしと進言した。しかし、忠勝の姉川での勇猛ぶりを聞き知っていた秀吉は目に涙を浮かべ「わざと寡兵で我が大軍に勇を示すのは、我が軍を暫時喰い止めて家康の軍を遠ざけるためであろう。徳川家を滅ぼした際には彼を生け捕って我が家人にすべきなり」と忠勝を討ち取ることを禁じた[31]
  • 秀吉・家康が和睦した後に秀吉に召しだされたとき、「秀吉の恩と家康の恩、どちらが貴殿にとっては重いか」と質問されると、「君のご恩は海より深いといえども、家康は譜代相伝の主君であって月日の論には及びがたし」と答えた[31]
  • 関ヶ原の戦いの際、東軍の兵士達は背後に陣を構えた毛利・長宗我部軍の動向を気にしていた。その時、忠勝は「もし毛利軍に戦う意志があるのならば、山の上ではなく、山を下って陣を構えるはず。今山の上にいるのは、戦う意志がないからである」と言い、味方を安心させたという。
  • 関ヶ原において西軍が敗戦した際、それに与した真田昌幸真田信繁(幸村)親子の助命を娘婿の真田信之と共に嘆願したが、両名に散々煮え湯を飲まされている家康は強硬に拒否した。またそれ以上に昌幸により上田城に釘付けにされた挙句に関ヶ原遅参という失態を演じ、家康の勘気を被った秀忠は強硬に死罪を主張した。結局は忠勝らの嘆願に折れる形で真田親子は紀伊高野山山麓の九度山に蟄居という処分に止まり、信濃上田領は信之に与えられることとなった。
  • 忠勝が死ぬ数日前、小刀で自分の持ち物に名前を彫っていた時、手元が狂って左手にかすり傷を負ってしまった。忠勝は「本多忠勝も傷を負ったら終わりだな。」と呟き、その言葉通りになったという[32]

遺書・辞世編集

遺書の一節「侍は首を取らずとも不手柄なりとも、事の難に臨みて退かず、主君と枕を並べて討ち死にを遂げ、忠節を守るを指して侍という」と、辞世の歌「死にともな 嗚呼死にともな 死にともな 深きご恩の君を思えば 」は、晩年は不遇であったとされながらも、主君・家康への変わらぬ忠誠心の大きさを物語っている。

系譜編集

子孫編集

水戸藩主徳川斉昭、15代将軍徳川慶喜らは忠政の末裔に当たり、経済学者の三木谷良一や、その次男である楽天グループ創業者の三木谷浩史も子孫にあたる(それぞれ本多忠明の曾孫、玄孫)[33][34][35]

家臣編集

  • 中根忠実
    通称は平右衛門。織田信長の庶弟。徳川家康の関東移封後、天正19年(1591年)頃に上総大多喜に任じられた本多忠勝に、家康の命により忠実は(忠勝の異父妹婿という縁により)付家老として配属された。故に本多家からとは別に幕府からも1000石の扶持を受けていた(知行3000石)。後に大多喜城の留守居役などを務め、本多家の伊勢桑名に転封の後は町割りなどに活躍したが、忠勝死去に際して殉死(追腹)した。忠実の子孫は後に1000石扶持を幕府に返還することで本多家の直臣化し、代々本多家の家老職を務める家として仕えた。
  • 都築秀綱
    通称は惣左衛門。浜名湖北岸の都筑を所領する国人。元は今川家の家臣であったが、永禄11年(1568年)末から開始される徳川家康の遠州侵攻で臣従。翌1569年には本領安堵を約す書状が家康から与えられている。姉川の合戦では旗本先手役に組み入れられ武功を示す。忠勝の与力に加えられ、代々続く本多忠勝系の郡山藩家老都筑氏の祖となった。嫡子である都筑為政は二代将軍徳川秀忠の旗本となり幕府では槍奉行。孫の都筑云成は、「九・六騒動」で本多家宗家の郡山藩がお家騒動となった際、筆頭家老として嫡子存続で幕府裁定を引き出した。都筑惣左衛門云成の大和郡山市にある東明寺にある。
  • 梶勝忠
    通称は金平。その祖は松平家一族である能見松平光親の次男・親友とされ、勝忠は曾孫にあたる。元は家康の使番として仕えていたが、永禄9年(1566年)、忠勝が旗本先手役に任命されるとその与力となった。以降、忠勝隊として多くの合戦に従軍し、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて、愛馬・三国黒を失いながらも徒立ちで奮戦する忠勝に自分の馬を差し出し窮地を救った逸話が残っている。また、慶長6年(1601年)、忠勝の桑名移封の際には先発隊として桑名城に入城している。都築氏と共に代々家老として本多家を支えた。
  • 河合政光
    通称は又五郎。旗本先手役に抜擢された忠勝の与力50騎の1人。忠勝が大名になるとそのまま家老として支えている。知行5000石(内、与力給2500石を含む)を幕府だけから拝領。実弟・政一が又五郎の通称と家督を継いでいる。

墓所・霊廟・神社編集

脚注編集

注釈編集

  1. ^ 『名将言行録』では「(忠勝は)黒糸の鎧に鹿角打たる冑を着、蜻蛉切りという鑓を、馬手の脇に抱込みて二反(約22メートル)計に押寄せたり。敵味方の真中に馬を静に歩行ませ入れ、味方に下知して引退き、見附の人家に火を掛て、浜松にこそ帰りけれ」とある。
  2. ^ 天正18年8月7日付で本多忠勝から滝川忠征に出された書状(名古屋大学文学部所蔵「滝川文書」本多忠勝書状)に、自分が万喜城を与えられたのは忠征の口添えのおかげとする趣旨の内容が書かれている。このことから、最初に忠勝に与えられたのは万喜城であったことが判明するとともに、その決定には忠征の主君である秀吉と家康の間の合意があったことがうかがえる(柴論文参照)。
  3. ^ 『藩翰譜』では「終に一所の手も負わず」とある

出典編集

  1. ^ a b c d e 『大多喜町史』(1991年) 479頁
  2. ^ 寛政重修諸家譜
  3. ^ , p. 13
  4. ^ a b c 徳川実紀
  5. ^ 三河物語. 岩波書店 
  6. ^ 祝田家文書. 静岡県史料 
  7. ^ a b c d 尾崎晃「本多忠勝」(『千葉史学』54号、2009年)
  8. ^ a b c , p. 15
  9. ^ a b 藩翰譜
  10. ^ a b c d 『江戸幕府の功労者たちはどんな人生を送ったのか? 徳川四天王』英和出版社、2014年。 
  11. ^ a b c 家康忠勝両公三百年祭事務所編 『家康忠勝両公三百年祭紀要』家康忠勝両公三百年祭事務所、1915年。
  12. ^ a b c , p. 16
  13. ^ 「大久保家秘記」『寛政重修諸家譜』。村川浩平「天正・文禄・慶長期、武家叙任と豊臣姓下賜の事例」『駒沢史学』80号、2013年。
  14. ^ a b 中嶋次太郎『徳川家臣団の研究』吉川弘文館、1966年。 
  15. ^ 川村優「徳川家康の新領国に対する家臣団配置―小田原落城直後の上総の一動向―」(『歴史手帳』6巻2号)
  16. ^ 『大多喜町史』(1991年)310頁-311頁
  17. ^ 川田貞夫「徳川家康の関東移封に関する諸問題」(『書陵部紀要』14号、1962年)
  18. ^ 『大多喜町史』(1991年)306頁
  19. ^ 柴裕之 著「豊臣政権の関東仕置と徳川領国―本多忠勝の上総万喜入城を通じて―」、佐藤博信編 編『中世房総と東国社会』岩田書院、2012年。ISBN 978-4-87294-739-7 
  20. ^ a b 水野 2020.
  21. ^ a b 『千葉県の歴史 通史編 近世1』(2007年) 126頁
  22. ^ 『大多喜町史』(1991年) 482-483頁
  23. ^ , p. 18.
  24. ^ a b 『大多喜町史』(1991年) 483頁
  25. ^ 名将言行録
  26. ^ a b 黒糸威胴丸具足〈鹿角脇立兜・小具足付/(本多忠勝所用)〉 - 国指定文化財等データベース(文化庁)、2018年10月8日閲覧。
  27. ^ 杉本崇 (2015年1月9日). “天下の名槍「蜻蛉切」、11年ぶり公開 本多忠勝が愛用”. 朝日新聞. http://www.asahi.com/articles/ASH172S5CH17UTPB001.html 2015年5月11日閲覧。 
  28. ^ 路蕪村悟道「蜻蛉切の作者はだれ」『刀剣と歴史』664-667号、日本刀剣保存会阪神支部、2005年。
  29. ^ 朝日新聞社編 『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞社、1994年。
  30. ^ 村上直「徳川四天王」『江戸幕府:その実力者たち』上巻、北島正元編、新人物往来社、1964年。
  31. ^ a b 『三河後風土記正説大全』巻42「池田之助討死 付 本田忠勝勇猛 并 石川数正不義の事」。同書巻43「本田平八郎忠勝勇猛 付 神君御陣替 并 秀吉神君を罷感事」。
  32. ^ 『戦国武将 群雄ビジュアル百科』(ポプラ社、監修:二木謙一
  33. ^ “楽天社長・三木谷浩史、経営者としての原点は戦国武将!?『ファミリーヒストリー』”. テレビドガッチ. (2018年12月15日). https://plus.tver.jp/news/58038/detail/ 
  34. ^ “三木谷浩史~経営者の原点”. NHKドキュメンタリー - ファミリーヒストリー (日本放送協会). オリジナルの2018年12月22日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20181222034214/https://www.nhk.or.jp/docudocu/program/1396/1804154/index.html 
  35. ^ “楽天・三木谷会長の幼少期はやんちゃ坊主…母が明かす「怒られてもケロっとしていました」”. スポーツ報知. (2018年12月17日). https://hochi.news/articles/20181217-OHT1T50141.html 
  36. ^ 本多家廟屋”. 姫路市. 2021年1月12日閲覧。
  37. ^ 園内マップ”. 岡崎公園. 2010年1月27日閲覧。
  38. ^ 九華公園 - 本丸跡等”. 桑名市. 2010年1月27日閲覧。

参考文献編集

参考論文編集

  • 川田貞夫「徳川家康の関東移封に関する諸問題」(『書陵部紀要』14号、1962年)
  • 川村優「徳川家康の新領国に対する家臣団配置―小田原落城直後の上総の一動向―」(『歴史手帳』6巻2号)
  • 尾崎晃「本多忠勝(一五四八ー一六一〇)―徳川幕府創出の功労者―」(『千葉史学』54号、2009年)
  • 柴裕之「豊臣政権の関東仕置と徳川領国―本多忠勝の上総万喜入城を通じて―」(佐藤博信編『中世房総と東国社会』岩田書院、2012年)
  • 黒田智 「本多平八郎の兜」(『民衆史研究』89号、2015年)
  • 水野伍貴「関ヶ原の役と本多忠勝」(『研究論集 歴史と文化』6号、2020年)

登場する作品編集

映画
テレビドラマ
楽曲
舞台
  • 『GO!GO!BREEZE!』(Steel Punk、2018年、演:古賀真悟)
漫画
書籍
  • 『本多平八郎忠勝』著者加野厚志
  • 『安城譜代三河植村氏の研究』著者宮崎仁良 本多忠勝の母小夜の実家を著した

関連項目編集

外部リンク編集

  • 桑名市観光ガイド (本多忠勝公菩提寺「浄土寺」、桑名城跡などへの交通案内)
  • 岡崎公園 (岡崎城跡、園内に本多忠勝公の銅像が据えられている他、関連展示品などがある)
  • 龍城神社 (岡崎城本丸に鎮座する神社、本多忠勝公も祭神として祭られている)
  • 本多忠勝陣跡 関ケ原観光Web
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