藤原不比等

日本の政治家

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藤原 不比等(ふじわら の ふひと)は、飛鳥時代から奈良時代初期にかけての公卿政治家諡号淡海公(たんかいこう)で近江国に封じられた。正史以外で文忠公を記す史料もある。

 
藤原 不比等
藤原不比等(菊池容斎・画、明治時代)
時代飛鳥時代 - 奈良時代初期
生誕斉明天皇5年(659年
死没養老4年8月3日720年9月9日
別名
諡号淡海公(文忠公)
官位正二位右大臣
正一位太政大臣
主君草壁皇子持統天皇文武天皇元明天皇元正天皇
氏族中臣氏→藤原氏
父母父:中臣鎌足
母:与志古の娘
兄弟定恵不比等氷上娘五百重娘耳面刀自、斗売娘
蘇我娼子五百重娘、賀茂比売、県犬養三千代
武智麻呂房前宇合麻呂宮子長娥子光明子多比能
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草壁皇子持統から元正に至る4代の天皇に仕え、大宝律令日本書紀の編纂に関わり、文武から元正に至る3代の天皇の擁立に貢献した。

藤原鎌足の次男だが、『興福寺縁起』『大鏡』『公卿補任』『尊卑分脈』では、天智天皇落胤と記されている(#天智天皇の皇胤説)。名を(ふひと)と記す文献もある(#姓名について)。

生涯編集

中臣鎌足の次男として生まれたため、少年時代はまだ中臣氏を名乗っていた。11歳の時、父・鎌足が死去。鎌足が亡くなる直前に藤原氏に改姓した際に不比等がこれを継承している。父の生前の関係から、近江朝に近い立場にいたが、壬申の乱の時は、数えで14歳であったために何の関与もせず、近江朝に対する処罰の対象にも天武朝に対する功績の対象にも入らなかった。だが、中臣金をはじめとする鎌足の同族(中臣氏)の有力者が近江朝の要人として処罰を受けたこともあって、天武朝の初期には中臣(藤原)氏は朝廷の中枢から一掃された形となっており、有力な後ろ盾を持たない不比等は『日本書紀』の天武天皇2年(673年)5月条にある大舎人の登用制度によって出仕して下級官人からの立身を余儀なくされたと考えられている。

不比等は、天武7、8年頃(678年頃)に蘇我連子の娘・蘇我娼子を嫡妻として迎えた。これによって不比等は、大臣家である蘇我氏の尊貴性を自己の子孫の中に取り入れることができ、藤原氏は氏として成立したばかりであるにもかかわらず、蘇我氏の地位を受け継ぐ氏であることを支配者層に示すことができた[1]

天武朝の後期に入ると、不比等は従兄弟の中臣大嶋[注釈 1]とともに草壁皇子に仕えたとみられている。東大寺正倉院の宝物として『国家珍宝帳』に記載されている「黒作懸佩刀」は草壁皇子から不比等に授けられた皇子の護り刀で、後に皇子と不比等自身の共通の孫である聖武天皇に譲られたと伝えられている[2]

『日本書紀』に不比等の名前が出るのは持統天皇3年(689年)2月26日(己酉)に判事に任命されたのが初出で持統天皇所生である草壁皇子に仕えていた縁と法律や文筆の才によって登用されたと考えられている。また、こうした経歴から不比等が飛鳥浄御原令の編纂に参加していたとする説もある[3]

文武天皇元年(697年)には持統天皇の譲位により即位した草壁皇子の息子・軽皇子(文武天皇)の擁立に功績があり、更に大宝律令編纂において中心的な役割を果たしたことで、政治の表舞台に登場する。また、阿閇皇女(元明天皇)付き女官で持統末年頃に不比等と婚姻関係になったと考えられている橘三千代の力添えにより皇室との関係を深め、文武天皇の即位直後には娘の藤原宮子が天皇の夫人となる[注釈 2]

文武天皇2年(698年)には、不比等の子孫のみが藤原姓を名乗り、太政官の官職に就くことができるとされた。不比等の従兄弟たちは、鎌足の元の姓である中臣朝臣姓とされ、神祇官として祭祀のみを担当することと明確に分けられた。このため、不比等が藤原氏の実質的な家祖と解することもできる[注釈 3]

興福寺 (中金堂)

文武天皇と宮子の間には首皇子(聖武天皇)が生まれ、さらに橘三千代との間の娘である光明子を聖武天皇に嫁がせたが、光明子は不比等の死後、不比等の息子の藤原四兄弟の力によって皇后となり初の非皇族の人臣皇后の例となった。

不比等は氏寺の山階寺を奈良に移し興福寺と改めた。その後、養老律令の編纂作業に取りかかるが養老4年(720年)に施行を前に病死した。享年62。養老律令を実施したのは孫の藤原仲麻呂の時である。

不比等とその息子の藤原四兄弟によって、藤原氏の繁栄の基礎が固められるとともに最初の黄金時代が作り上げられた。

天智天皇の皇胤説編集

不比等は実は鎌足の子ではなく、天智天皇の落胤であるとの説がある。『公卿補任』の不比等の項には「実は天智天皇の皇子と云々、内大臣大職冠鎌足の二男一名史、母は車持国子君の女、与志古娘也、車持夫人」とあり、『大鏡』では天智天皇が妊娠中の女御を鎌足に下げ渡す際、「生まれた子が男ならばそなたの子とし、女ならば朕のものとする」と誓約の言葉を言ったという伝説(実際に男子=不比等が生まれた)を伝える。『帝王編年記』『尊卑分脈』などの記載も同様である。

平安時代まではこの伝説はかなりの信憑性を持っていたと考えられ、『竹取物語』でかぐや姫に求婚する5人の貴公子の1人車持皇子のモデルは不比等とされている。これは、母が車持氏出身の皇子、という意味の名である。

歴史学者の間では皇胤説の支持は少ないが、もし本当に皇胤であったとすれば、後の異例とも言える不比等の出世が、天武天皇持統天皇代に行われた皇親政治(天智・天武系皇子を朝廷の要職に就け、政治の中枢を担わせた形態)の延長として考えることも可能になるとして、支持する学者もいる[5]

また続けて、先例として天智天皇と鎌足の話が述べられているが、ここでは天皇の子とされているのは不比等ではなく定恵である(『多武峯略記』には、定恵は孝徳天皇の落胤とする説を載せている)。

姓名について編集

不比等という名前についても、壬申の乱の後、天智天皇系の皇子ということで田辺史大隅(たなべ の ふひと おおすみ[注釈 4])の家にしばらく匿われていた[6]ことと関連する説がある。

もっとも、藤原(中臣)鎌足は大化の改新以来、日本の外交責任者の地位にあり、当時外交使節として活躍していたのが僧侶と史(フミヒト:書記官)及び彼らが持っていた漢文や儒教・仏教の知識であったことから、自分の長男(定恵)を僧侶として、次男(不比等)を史として育てて、将来的に自分の役割を補佐・継承させる意図が存在していたとして、皇胤説に否定的な見方もある[7]。また、後年の『大宝律令』の編纂には不比等だけでなく、田辺史(氏)[8]に属する2名(百枝首名)が関わっていたことが知られているが、これが不比等の推挙であると同時に田辺大隅ら田辺史の一族が法律知識を有して不比等に知識を授けた可能性を示している[3]

経歴編集

※日付は旧暦、年齢は数え年。

系譜編集

住居編集

平城京内で、平城宮の東側に隣接する8丁に相当する面積の居住地を与えられていた。これは、長屋王の4町と比べて突出した面積となっている[10]。不比等の死後、娘である光明皇后が敷地の一部を転用して法華寺海龍王寺を創建している[11]

脚注編集

注釈編集

  1. ^ 大嶋は中臣金の甥であるが比較的早い段階で天武天皇に登用され、天武10年の帝紀編纂の責任者の1人として名を連ね、額田王の再婚相手であったとする説もある。
  2. ^ なお、これと同時に紀氏・石川氏の娘も天皇のとなっている。
  3. ^ 高島正人は鎌足が藤原姓を授かったのは1代限りであり、不比等ら一族が藤原を名乗ることが許されたのは八色の姓施行後の天武天皇14年(685年)頃とする説を唱えている。その説を採ると鎌足の没後、暫く藤原氏は中絶していたことになる[4]
  4. ^ 姓(かばね)である。
  5. ^ 藤氏家伝』によると鎌足は呂尚の著書とされる『六韜』『三略』を愛読したという。
  6. ^ 『尊卑分脈』『賀茂系図』による。ただし、近藤敏喬『宮廷公家系図集覧』では、年代が合わないとして小黒麻呂の祖父・鴨蝦夷の女に比定している。

出典編集

  1. ^ 倉本一宏『蘇我氏 古代豪族の興亡』(中央公論新社、2015年)
  2. ^ 薗田香融「護り刀考」(関西大学民俗学会『伝承文化研究』創刊号、1964年。のち薗田『日本古代の貴族と地方豪族』(塙書房、1992年)所収)、上山春平『埋もれた巨像』(岩波書店、1977年)など
  3. ^ a b 川崎晃「藤原不比等-その前半生について-」(三田古代史研究会 編『法制と社会の古代史』慶應義塾大学出版会、2015年)ISBN 978-4-7664-2230-6
  4. ^ 高島正人「藤原朝臣氏の成立」(初出:『政治経済史学』第164号(1980年1月)/所収:同『奈良時代の藤原氏と朝政』(吉川弘文館、1999年)
  5. ^ 保立道久『かぐや姫と王権神話』(洋泉社、2010年、ISBN 978-4-86248-600-4)121-124頁。
  6. ^ 保立前掲書、123頁。
  7. ^ 遠藤慶太「入唐僧貞恵と藤原鎌足」(初出:篠川賢増尾伸一郎 編『藤氏家伝を読む』(吉川弘文館、2010年)/所収:遠藤『日本書紀の形成と諸資料』(塙書房、2015年)) ISBN 978-4-8273-1272-0
  8. ^ 藤原不比等と百済系田辺史との関係”. web.archive.org (2019年3月31日). 2022年10月14日閲覧。
  9. ^ 続日本紀』による。
  10. ^ 奈良・平城京跡の邸宅 有力貴族の屋敷か 敷地6万1000平方メートル”. 毎日新聞 (2019年7月19日). 2019年7月20日閲覧。
  11. ^ 歩くなら 影の実力者、藤原不比等の邸宅があったとされる地へ”. 奈良県. 2019年7月20日閲覧。

参考文献編集

関連項目編集

外部リンク編集

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