東ローマ帝国の皇帝一覧

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東ローマ帝国皇帝の一覧

  • 名前の後の“ ”内はあだ名。
  • 名前の後の“ ”が付かないものは姓。

王朝による分類は後世の歴史家によるものである。

概要編集

正式な君主号として「東ローマ皇帝」を意味する単一の称号は存在していない。4世紀には古代ローマ帝国の「インペラートルカエサル、フラヴィウス、アウグストゥス」等のラテン語の称号がそのまま使用された。

例えば6世紀の皇帝ユスティニアヌス1世も「アラマン人の、ゴート人の、フランク人の、ゲルマン人の、アント人の、アラン人の、ヴァンダル人の、アフリカ人のアウグストゥス」[1][2]と名乗った。7世紀ヘラクレイオス治世初期にはギリシア語の「バシレウス諸王の王)」が用いられ、後には「アウトクラトール[注 1]、カイサル、フラヴィオス、セバストスないしはアウグストス[注 2]」等も使用されるようになった[注 3]

一方で古代ローマ式の征服称号はヘラクレイオスを最後に用いられなくなった[3](例外としてマヌエル1世は古代風の征服称号を名乗った[4])。9世紀になるとカール大帝との称号を巡る争いの結果「ローマ人の」という修飾語が付加されるようになり[5][6][7]、以後は滅亡まで一貫して「ローマ人の皇帝」を名乗るようになった[8]

西ローマ帝国の崩壊後は唯一のローマ皇帝としてギリシャイタリアシリア北アフリカなどの地域に専制的な君主として君臨したが、次第に東ローマ帝国は本拠地であるギリシャ地域を治めるのみの帝国と成って行った。また、文化的・人的・軍事的にもギリシアの影響が強くなり、国外からは単なる「ギリシアの皇帝」と見なされる事もあった。東ローマ帝国自体と同じく、西ヨーロッパ諸国やルーシ諸国からは「ギリシア皇帝」ともみなされた。

ローマ帝国で東西の分裂が恒久化した時代から、古代ローマ皇帝としての権威を引き継ぎ、古代ローマから続く軍隊・元老院・市民の支持によって即位するという建前を守り続けた。

表記編集

日本人の研究者の間では、公用語がラテン語であったフォカスまでをラテン語で、公用語をギリシア語に改めたヘラクレイオス以降はギリシア語で表記するのが一般的であり、ここでもそれに従っている。

ただし、日本では一部の名前が慣用として古代・中世のギリシア語の発音からかけ離れた音に則っている場合があり、全てがギリシア語に忠実なわけではない。

コンスタンティヌス朝編集

肖像名称生年と誕生地在位期間即位背景没年と死因
コンスタンティヌス1世“大帝”
CAESAR FLAVIVS CONSTANTINVS VALERIVS AVGVSTVS
272年2月27日
ナイッスス
(属州モエシア
324年9月19日337年5月22日コンスタンティヌス朝の創始者で「大帝」と尊称される。マクセンティウスと協力してまずセウェルスを幽閉し、西方副帝として台頭する。その後の反乱で西方帝位を獲得、更に東方正帝リキニウスの軍を破り、ローマ帝国全体の皇帝となる。337年5月22日
自然死
コンスタンティウス2世
CAESAR FLAVIVS IVLIVS CONSTANTIVS AVGVSTVS
317年8月7日
シルミウム
(属州パンノニア
337年5月22日 – 361年11月3日コンスタンティヌス1世の三男。兄弟3人で帝国を3分割し東方を担当した。ムルサの戦いで破り追い詰めたマグネンティウス353年に自殺したため、ローマ帝国全体の皇帝となる。361年11月3日
自然死
ユリアヌス
CAESAR FLAVIVS CLAVDIVS IVLIANVS AVGVSTVS
332年331年
コンスタンティノープル
(属州トラキア
360年初頭 – 363年6月26日コンスタンティヌス1世の甥。従兄弟であるコンスタンティウス2世により後継者に指名される。叔父によるキリスト教の庇護を廃止したことから「背教者」と蔑称された。363年6月26日
遠征中に戦傷死
ヨウィアヌス
CAESAR FLAVIVS IOVIANVS AVGVSTVS
331年
シグドゥヌム
(属州モエシア)
363年6月26日 – 364年2月17日ユリアヌスの側近。ユリアヌスが遠征先で後継者を指名せず、跡継ぎも残さずに急死したことから、遠征軍の支持を得て皇帝となる。遠征からの帰還途中に火鉢によるガス中毒で事故死した。364年2月17日
事故死(暗殺説あり)

ウァレンティニアヌス朝編集

肖像名称生年と誕生地在位期間即位背景没年と死因
ウァレンス
FLAVIVS IVLIVS VALENS AVGVSTVS
328年
キバラエ
(属州パンノニア)
364年3月28日378年8月9日ウァレンティニアヌス1世の弟。ヨウィアヌス帝の事故死により、ウァレンティニアヌス1世が皇帝に即位し、同帝は自ら西方帝となるとともに、弟ウァレンスを共同皇帝(東方帝)とした。ハドリアノポリスの戦いゴート人の反乱軍に敗れて戦死する。378年8月9日
ゴート軍との戦いで敗死

テオドシウス朝編集

肖像名称生年と誕生地在位期間即位背景没年と死因
テオドシウス1世“大帝”
FLAVIVS THEODOSIVS AVGVSTVS
347年1月11日
カウカ
(属州ヒスパニア
379年1月19日 – 395年1月17日ローマ軍の将軍であった大テオドシウスの息子として生まれた。379年、グラティアヌスによって共同皇帝とされた。グラティアヌスの異母弟ウァレンティニアヌス2世の死後、394年9月6日におきたフリギドゥスの戦いエウゲニウスを破り、息子ホノリウスを西方正帝とすることでローマ帝国の東西を実質的に単独支配した。395年1月17日
自然死
アルカディウス
FLAVIVS ARCADIVS AVGVSTVS
377年395年1月17日 – 408年5月1日テオドシウス1世の長男。東方担当の皇帝となるが、この時代から東西分割の深化が進んでいく。408年5月1日
自然死
テオドシウス2世“カリグラフォス”
(能書家)
FLAVIVS THEODOSIVS IVNIOR AVGVSTVS
401年4月10日
コンスタンティノープル
(属州トラキア)
408年5月1日 – 450年7月28日アルカディウスの息子。テオドシウスの大城壁など、帝国東方の防衛強化を進める。跡継ぎを持たないまま病没した。450年7月28日
自然死
マルキアヌス
FLAVIVS MARCIANIVS AVGVSTVS
396年450年夏 – 457年1月テオドシウス2世の没後、ゲルマン人の将軍アスパルに支持され即位。テオドシウス2世の死後に彼の姉と結婚したためテオドシウス家の一員とみなされることもある。跡継ぎを持たないまま死亡した。457年1月
自然死

レオ朝編集

肖像名称生年在位期間即位背景没年と死因
レオ1世“大帝”
FLAVIVS VALERIVS LEO AVGVSTVS
400年457年2月7日474年1月18日トラキア出身のベス族の軍人。マルキアヌスの死後、マギステル・ミリトゥムゲルマン人のアスパルに支持され即位。474年1月18日
病死
レオ2世
FLAVIVS LEO IVNIOR AVGVSTVS
467年?474年1月18日 – 474年11月17日ゼノンとレオ1世の娘アリアドネの子。先帝の外孫として即位。474年11月17日
病死
ゼノン
FLAVIVS ZENO PERPETVVS AVGVSTVS
426年474年11月17日 – 491年4月9日レオ2世の父で後見役として共同皇帝にあったが、息子の死で単独皇帝となった。即位間もない475年にレオ1世の義弟であったバシリスクスによってコンスタンティノポリスを追われるが、翌476年にバシリスクスからコンスタンティノポリスを奪回。彼の治世にロムルス・アウグストゥルスを廃位したオドアケルから西方帝位が献上されたため、名目上ではゼノンが東西合わせた全ローマ帝国の皇帝となった。491年4月9日
病死
バシリスクス (対立皇帝)
FLAVIVS BASILISCVS AVGVSTVS
?475年1月9日 - 476年8月レオ1世の義弟。ゼノンを追放して即位。476年/477年
処刑
アナスタシウス1世
FLAVIVS ANASTASIVS AVGVSTVS
431年491年4月11日518年7月9日枢密院警護長。ゼノンの死で帝位継承者はいなくなったため、ゼノンの皇后アリアドネに選ばれ結婚することで、皇帝として即位。518年7月9日
自然死

ユスティニアヌス朝編集

肖像名称生年在位期間即位背景没年
ユスティヌス1世
FLAVIVS IVSTINVS AVGVSTVS
450年2月2日518年527年8月1日農民出身。近衛隊の将軍。アナスタシウス1世が後継者を指名せずに死亡したため、元老院の指名により皇帝に即位した。527年8月1日
ユスティニアヌス1世“大帝”
FLAVIVS PETRVS SABBATIVS IVSTINIANVS AVGVSTVS
483年5月11日527年8月1日 – 565年11月14日(または11月13日ユスティヌス1世の甥。叔父の晩年に副帝となり、その死後、唯一の正帝となった。565年11月14日(または13日)
ユスティヌス2世
FLAVIVS IVSTINVS IVNIOR AVGVSTVS
520年565年11月14日 – 578年10月5日ユスティニアヌス1世の甥。伯父が嗣子無くして死去したため、後を継ぐこととなった。578年10月5日
ティベリウス2世
FLAVIVS TIBERIVS CONSTANTINVS AVGVSTVS
540年578年10月5日 - 582年8月14日ユスティヌス2世の娘婿。義父がサーサーン朝に敗北したショックで精神異常になると、副皇帝となって実権を譲られ、578年にユスティヌスの死により正式に皇帝に即位。582年8月14日
マウリキウス
FLAVIVS MAVRICIVS TIBERIVS AVGVSTVS
539年582年8月14日 – 602年11月22日ティベリウス2世の娘婿。義父の死により即位することとなった。602年11月27日
フォカス
FLAVIVS PHOCAS AVGVSTVS
547年?602年11月23日610年10月4日トラキア地方の出身。ドナウ川国境に駐屯する百人隊長。602年にドナウ北岸での越冬命令が出た時、軍はそれに反対して反乱を起こし、コンスタンティノポリスに向かって進軍した。時の皇帝マウリキウスは逃亡しようとしたが捕らえられて処刑された。その後フォカスが兵士たちによって皇帝に推戴され、即位した。610年10月5日

ヘラクレイオス朝編集

肖像名称生年在位期間即位背景没年
ヘラクレイオス
FLAVIVS HERACLIVS AVGVSTVS
Ηράκλειος
575年610年10月5日641年2月11日アルメニア人貴族大ヘラクレイオスの息子。カルタゴ総督であった父が皇帝フォカスに対して反乱を起こした。ヘラクレイオス(息子)が610年10月、首都コンスタンティノポリスへ艦隊を率いて攻め寄せると、首都はわずか2日で開城。フォカスは処刑され、代わってヘラクレイオスが皇帝に即位した。641年2月11日
コンスタンティノス3世
Κωνσταντίνος Γ' Ηράκλειος
612年5月3日641年2月11日 – 641年5月24日ヘラクレイオスの長男で、先妻エウドキアとの子。父の死により即位。遺言により異母弟ヘラクロナスと共同統治が行われた。641年5月24日
ヘラクロナス
Ηρακλεωνάς
626年641年2月11日 – 641年9月ヘラクレイオスの4人目の子供で、後妻(姪)マルティナとの子。父の死後、遺言により異母兄コンスタンティノス3世と共同皇帝として即位。即位4ヶ月ほどでコンスタンティノスが急死しヘラクロナスが単独皇帝となる。641年?
コンスタンス2世“ポゴナトス”
(髭が生えている)
Κώνστας Β' Ηράκλειος
630年11月7日641年9月 – 668年9月15日コンスタンティノス3世の子。父の死後にヘラクロナスを擁したマルティナが権力を掌握しようとしたが、中央軍長官であったウァレンティノスを中心とするコンスタンティノス3世派と、首都市民(サーカス党派)の力によって、11歳で共同皇帝となる。さらに元老院などの画策によってヘラクロナスらは廃位・追放され、コンスタンスが単独の皇帝となった。668年9月15日
コンスタンティノス4世
Κωνσταντίνος Δ' ο Πωγώνατος
650年668年9月15日 – 685年コンスタンス2世の長男。654年4月に父によって共同皇帝に任じられる。668年に父が暗殺されると皇帝に即位。685年7月10日?
ユスティニアノス2世“リノトメトス”
(鼻削がれ男)
Ιουστινιανός Β' ο Ρινότμητος
668年?685年 – 695年コンスタンティノス4世の長男。父の死により即位する。711年11月7日
レオンティオス
Λεόντιος
?695年 - 698年イサウリア地方の出身。コンスタンティノス4世時代からテマ・アナトリコンの長官として活躍。ユスティニアノス2世によってアルメニア戦線に投入されるなどしている。しかし皇帝の不興を買って692年頃に投獄された。695年に赦免されて、テマ・ヘラスの長官に任じられるもサーカス党派の力を借りてクーデターを起こし、皇帝を捕らえて鼻を削いだ上でクリミア半島ケルソンに追放し、自ら皇帝として即位した。706年2月15日?
ティベリオス3世
Τιβέριος Γ' ο Αψίμαρος
?698年 – 705年8月キビュライオタイの指揮官。698年のカルタゴの戦いでカルタゴを奪われクレタ島まで撤退してきた艦隊に擁されて反乱を起こす。サーカス党派が呼応したこともあってコンスタンティノポリスを攻略しレオンティオスを廃して皇帝に即位。706年2月15日?
ユスティニアノス2世“リノトメトス” (復位)
Ιουστινιανός Β' ο Ρινότμητος
668年?705年8月 – 711年削がれた鼻の代わりに黄金製の付け鼻をつけ、帝位への復帰を公然と表明。ハザール汗国に逃れ、可汗の姉妹と結婚。さらに第一次ブルガリア帝国のテルヴェル王が復位を支持し、その力を背景にしてティベリオス3世を打倒して、復位。711年11月7日
フィリピコス・バルダネス
Φιλιππικός Βαρδάνης
?711年 - 713年6月2日ペルガモン出身のアルメニア系の人物。父のニケフォロスはパトリキオスという高い爵位をもっており、彼自身もパトリキオスだったとされている。ティベリオス3世によって一時ケファレニア島に追放されていたが、ユスティニアノス2世によって召喚された。しかし711年、ケルソンに再び追放されることとなり、この年ユスティニアノス2世が復讐のためにケルソンに派遣した艦隊に同乗した。しかしこの艦隊がケルソン市民に呼応してユスティニアノス2世に反旗を翻すと、新たな皇帝として即位させたのである。714年1月20日?
アナスタシオス2世
Αναστάσιος Β'
?713年6月3日 - 715年フィリピコス・バルダネスの代には書記局長官を務めていた。だがフィリピコスに対する不満が高まってきたのを見て、他の高官たちとともに陰謀を企画した。そしてフィリピコスの幽閉に成功すると、その翌日に聖ソフィア大聖堂で即位。719年7月1日
テオドシオス3世
Θεοδόσιος Γ' ο Αδραμμυττηνός
?715年 – 717年3月25日アドラミュティオンの徴税役人。アナスタシオス2世に対してテマ・オプシキオンが反乱を起こすと、反乱軍に担ぎ上げられて対立皇帝とされた。反乱軍はコンスタンティノポリスに攻め寄せてその攻略に成功したため、小アジア半島に避難していたアナスタシオス2世も降伏して退位した。その結果、皇帝となった。彼が皇帝となった理由として、実はティベリオス3世の息子であったからであるとする有力な見解が提出されている。?

イサウリア朝(シリア朝)編集

肖像名称生年在位期間即位背景没年
レオーン3世“イサウロス”
(イサウリア)
Λέων Γ' ο Ίσαυρος
685年717年3月25日 - 741年7月18日ゲルマニケイア(現カフラマンマラシュ)の出身。アナスタシオス2世によってテマ・アナトリコンの長官に任じられる。イスラーム軍の司令官であるマスラマ(アブドゥルマリクの息子)がアナトリコンの中心都市であるアモリオンに迫っていたときに計略によってマスラマの軍を一旦後退させたあと、テマ・アルメニアコンの長官で盟友のアルタヴァスドスとともにコンスタンティノポリスに向かった。コンスタンティノポリス対岸のクリュソポリスに到達すると、コンスタンティノポリス総主教のゲルマノス1世らがテオドシオス3世を退位させ、即位。741年7月18日
コンスタンティノス5世“コプロニュモス”
(糞)
Κωνσταντίνος Ε' ο Κοπρώνυμος ή Καβαλίνος
718年741年7月18日 - 775年9月14日レオーン3世の子。741年、父の死により即位する。しかし即位の翌年、義理の兄弟であったアルタヴァストスに反乱を起こされて、一時皇位を追われてしまった。しかし皇帝として即位したアルタヴァストスはイコン擁護政策を採用したため、小アジアの国民の支持を得ることができず、小アジアのテマの支持を受けたコンスタンティノスは都へ進軍してアルタヴァスドスを破り、翌743年に皇帝に復位した。775年9月14日
レオーン4世“ハザロス”
(ハザール)
Λέων Δ' Χάζαρος
750年775年9月14日 - 780年9月8日コンスタンティノス5世とイレーネーの子。父の死により即位。780年9月8日
コンスタンティノス6世
Κωνσταντίνος ΣΤ'
771年 - 797年780年9月8日 - 797年レオーン4世とエイレーネーの子。父の死により即位。11歳という幼少であったため、母が摂政となって政治を取り仕切った。797年
エイレーネー“アテナイア”
(アテナイ人)
Ειρήνη η Αθηναία
752年797年 - 802年10月31日レオーン4世の皇后で、コンスタンティノス6世の母。コンスタンティノスが長ずるにつれ彼女の意に沿わなくなり、母子の仲は徐々に険悪になっていった。いったんは息子が実権を掌握したものの、ブルガリア遠征の失敗などから人望を失った。エイレーネーは軍を動かして息子を捕らえ、目をくりぬいた上で追放し、帝国史上初の女帝として即位した。803年8月9日
ニケフォロス1世
Νικηφόρος Α'
760年?802年10月31日 - 811年7月26日税務長官であったが、クーデターの中心人物として、エイレーネーを退位に追い込んで即位した。811年7月26日
スタウラキオス
Σταυράκιος
?811年7月26日 - 811年10月1日ニケフォロス1世の子。803年に父によって共同皇帝とされる。811年、父と共に第一次ブルガリア帝国の討伐に出陣したが、父は戦死し、自身も瀕死の重傷を負ってしまい単独皇帝として政務を執れる状態にはなかった。812年1月11日
ミカエル1世ランガベー
Μιχαήλ Α' ο Ραγκαβέ
?811年10月2日 - 813年7月11日ニケフォロス1世の娘婿で、スタウラキオスの義弟。瀕死の重傷を負った義兄に皇帝の座を譲られて即位することとなった。844年1月11日
レオーン5世“アルメニオス”
(アルメニア人)
Λέων Ε' ο Αρμένιος
?813年7月22日 - 820年12月25日パトリキオスのバルダスの子。ミカエル1世がブルガリアのクルムと戦って敗れた後、彼から譲位されて即位した。820年12月25日

アモリア朝編集

肖像名称生年在位期間即位背景没年
ミカエル2世“トラブロス”
(吃音者・どもる人)
Μιχαήλ Β' ο Τραυλός η Ψηλλος
770年頃?820年12月25日 - 829年10月2日アモリオンの出身。レオーン5世とは親友で近衛部隊長官に任命される。しかし次第に両者の仲は険悪になり、820年12月にミカエルは逮捕された。だが時期が丁度クリスマスであり、処刑が1日延期されたため、この機会を利用してミカエルの支持者たちがレオーン5世を暗殺し、ミカエルが即位した。829年10月2日
テオフィロス
Θεόφιλος
813年?829年10月2日 - 842年1月20日ミカエル2世の子。821年の時点で父によって共同皇帝とされていた。829年に父が没した後、即位。842年1月20日
ミカエル3世“メスィソス”
(飲んだくれ・酔っ払い・酩酊帝)
Μιχαήλ Γ' ο Μέθυσος
840年1月19日または1月20日842年1月20日 - 867年9月23日または9月24日テオフィロスの子。父が没したとき、わずか2歳であったため母テオドラと宦官のテオクティストスに実権を握られる。成人すると、かつてテオクティストスと対立して追放されていた叔父のバルダスらと協力して855年にクーデターを起こし、テオドラを修道院に追放して親政を開始した。867年9月23日または9月24日

マケドニア朝編集

肖像名称生年在位期間即位背景没年
バシレイオス1世
Βασίλειος Α'
?867年 – 886年8月29日アルメニア系農民の子。城壁防衛長官だったテオフィリッツェスに仕えていたが、ミカエル3世の目に留まって急速な出世を遂げる。この出世により皇帝の叔父で副帝のバルダスとの衝突を引き起こしたため計略をめぐらして暗殺し、皇帝もこれを黙認した。その後、共同皇帝の地位を与えられるが皇帝と衝突し、皇帝を暗殺して単独皇帝となった。886年8月29日
レオーン6世“フィロソフォス”
(賢帝)
Λέων ΣΤ' ο Σοφός
866年9月1日あるいは9月19日886年8月29日 – 912年5月11日バシレイオス1世の子。870年に共同皇帝となった。母の没後、父との関係は急速に悪化し謀反の疑いをかけられて後継者の地位を剥奪されて3年あまり幽閉されていた。復権した直後に父が急死したため、その権力を継承した。912年5月11日
アレクサンドロス
Αλέξανδρος Γ' του Βυζαντίου
870年頃912年5月11日 – 913年6月6日バシレイオス1世の子で、レオーン6世の弟。879年に共同皇帝となった。兄が亡くなると甥のコンスタンティノス7世がまだ幼かったため、後継者となった。913年6月6日
コンスタンティノス7世“ポルフュロゲネトス”
(緋色の産室生まれ)
Κωνσταντίνος Ζ' ο Πορφυρογέννητος
905年?913年6月6日 – 959年11月9日
920年 - 944年は共同皇帝)
レオーン6世の子。叔父のアレクサンドロスが亡くなると帝位に就いた。母で摂政のゾエ・カルボノプシナがブルガリア帝国と戦って敗れ、その権威が失墜すると、帝国海軍の司令長官ロマノス・レカペノスがクーデターを起こして実権を掌握し共同皇帝に格下げられた。944年、ロマノス1世によって後継者に指名される。これに反対してロマノス1世の次男と三男とクーデターを起こすが民衆の支持を受けていたため二人を逮捕させて追放し正帝の座を回復した。959年11月9日
ロマノス1世レカペノス
Ρωμανός Α' ο Λεκαπηνός
870年920年12月17日 – 944年12月16日アルメニア人農民の子。帝国海軍の司令長官(ドルンガリオス・トーン・プロイモン)。コンスタンティノス7世の母で摂政のゾエ・カルボノプシナがブルガリア帝国と戦って敗れ、その権威が失墜すると、クーデターを起こしてゾエ・カルボノプシナを追放。娘ヘレネをコンスタンティノスに嫁がせてその義父となり、9月には副皇帝、12月には共同皇帝となり、帝国の実権を掌握して正帝として即位。948年6月15日
ロマノス2世
Ρωμανός Β' ο Πορφυρογέννητος
939年959年11月9日 – 963年3月15日コンスタンティノス7世とロマノス1世レカペノスの娘ヘレネの子。父の死により後を継いで即位。963年3月15日
ニケフォロス2世フォカス
Νικηφόρος Β' Φωκάς
913年963年3月15日 – 969年12月10日カッパドキアの軍事貴族であるフォカス家の生まれ。ロマノス2世の没後、2人の息子が幼かったため国の実権をめぐって宦官ヨセフ・ブリンガスと争うが首都での市街戦を制して市民の歓呼に迎えられて入城した。その後、ロマノスの皇后テオファノと結婚し正統皇室の子供達の義父という立場で皇帝として即位。969年12月10日
ヨハネス1世ツィミスケス
Ιωάννης Α' Κουρκούας ο Τσιμισκής
925年969年12月11日976年1月10日ニケフォロス2世フォカスの甥。ニケフォロスに冷遇されたことで不満を抱くようになり)、愛人関係にあった皇后テオファノと結託してニケフォロスを暗殺。自ら皇帝に即位した。976年1月10日
バシレイオス2世“ブルガロクトノス”
(ブルガリア人殺し)
Βασίλειος Β' ο Βουλγαροκτόνος
958年976年1月10日 – 1025年12月25日ロマノス2世とテオファノの長男。ニケフォロス2世フォカス、ヨハネス1世ツィミスケスの下で、単なる飾り物の共同皇帝としての幼少年期を過ごした。ヨハネス1世の死により、正帝として即位。1025年12月25日
コンスタンティノス8世
Κωνσταντίνος Η'
960年?1025年12月25日 – 1028年11月15日ロマノス2世とテオファノの次男。長く共同皇帝の座にあったが、兄が子供を残さずに死去したため正帝に即位。1028年11月15日
ロマノス3世アルギュロス
Ρωμανός Γ' ο Αργυρός
968年1028年11月15日 – 1034年4月11日名門文官貴族の元老院議員・首都長官。コンスタンティノス8世の次女のゾエと強引に結婚させられ後継者となる。コンスタンティノス8世の死後、皇帝に即位した。1034年4月11日
ゾエ
Ζωή
978年1028年11月15日 – 1050年
(女帝・共同統治者)
コンスタンティノス8世の次女。ミカエル5世の追放後、妹のテオドラと共に女帝として即位。1050年6月
ミカエル4世“パフラゴニオス”
(パフラゴニア人)
Μιχαήλ Δ' ο Παφλαγών
1010年1034年4月11日 – 1041年12月10日パフラゴニア地方出身の農民の子、あるいは両替商の息子。皇后ゾエの愛人となりロマノス3世が入浴中に不慮の死(一説には不仲であったゾエの刺客による暗殺)を遂げた後、ゾエはミカエルと結婚し、彼を皇帝として新たに即位させた。1041年12月10日
ミカエル5世“カラファテス”
(繋ぎ・隙間の詰物)
Μιχαήλ Ε' ο Καλαφάτης
1015年1041年12月10日 – 1042年4月ミカエル4世の甥(従兄弟とも言われている)。ミカエル4世が病死した後、宦官ヨハネス・オルファノトロフォス(ミカエル4世の弟)によって皇帝として擁立された。1042年8月24日
テオドラ
Θεοδώρα
995年1042年4月 – 1042年6月コンスタンティノス8世の三女。ミカエル5世の追放後、姉のゾエと共に女帝として即位したが、わずか2ヵ月後に退位した。1056年9月初頭
コンスタンティノス9世モノマコス
Κωνσταντίνος Θ' ο Μονομάχος
1000年1042年6月 - 1055年1月11日ロマノス3世アルギュロスの縁戚。ゾエが元老院議員であったコンスタンティノス・モノマコスと結婚し、彼を皇帝として即位させた。1055年1月11日
テオドラ (復位)
Θεοδώρα
995年1055年1月11日 - 1056年9月初頭コンスタンティノス9世モノマコスが病死した後、女帝として再び即位した。1056年9月初頭
ミカエル6世ストラティオティコス
Μιχαήλ ΣΤ' ο Στρατιωτικός
?1056年 - 1057年テオドラの養子。テオドラに嗣子がなかったため、その遺言によって、元老院議員であったミカエルが皇帝として即位した。1059年
イサキオス1世コムネノス
Ισαάκιος Α' Κομνηνός
1005年?1057年 – 1059年パフラゴニアに多くの所領を持つ軍事貴族コムネノス家の出身。ミカエル6世ストラティオティコスの文治政治に対し反乱を起こし、軍を率いて首都コンスタンティノポリスに進軍し、ミカエル6世を退位させて、自らが皇帝となった。1061年

ドゥーカス朝編集

肖像名称生年と誕生地在位期間即位背景没年
コンスタンティノス10世ドゥーカス
Κωνσταντίνος Ι' Δούκας
1006年1059年 - 1067年5月アンドロニコス・ドゥーカスの子。イサキオス1世コムネノスが病で退位した後、元老院議員であったコンスタンティノスが皇帝として即位した。1067年5月
エウドキア・マクレンボリティサ
Ευδοκία Μακρεμβολίτισσα
1021年1067年5月 - 1068年コンスタンティノス10世ドゥーカスの皇后。夫が死去した後、女帝として即位した。1096年
ロマノス4世ディオゲネス
Ρωμανός Δ' Διογένης
?1068年 - 1071年カッパドキアの将軍。セルジューク朝の侵攻もあり民衆や貴族が強力な軍事政権の樹立を望んだため、エウドキアと結婚し、皇位を譲られて即位した。1072年
ミカエル7世ドゥーカス“パラピノ”
(4分の1を失った)
Μιχαήλ Ζ' Δούκας ο Παραπινάκης
1050年1071年 - 1078年コンスタンティノス10世ドゥーカスとエウドキア・マクレンボリティサの子。ロマノス4世ディオゲネスがマンズィケルトの戦いでセルジューク朝に大敗し、ロマノス自身も捕虜となってしまったため、エウドキアは夫を廃して息子のミカエルを皇帝として即位させた。1090年?
ニケフォロス3世ボタネイアテス
Νικηφόρος Γ' Βοτανειάτης
1002年頃1078年 - 1081年アナトリコン・テマの長官。セルジューク朝の侵攻や皇位をめぐる内紛、財政破綻などから混乱を極め、各地の有力者による内乱も頻繁に勃発していた中、ニケフォロスは小アジアで反乱を起こし、コンスタンティノポリスで起きた反乱によって退位したミカエル7世の後を継いで、皇帝として即位した。1081年12月10日

コムネノス朝編集

肖像名称生年と誕生地在位期間即位背景没年
アレクシオス1世コムネノス
Αλέξιος Α' Κομνηνός
1048年1081年 - 1118年8月15日イサキオス1世コムネノスの甥。内部では有力貴族の反乱が起こり、外部からはセルジューク朝やノルマン人に東西から侵攻を受け、内憂外患の状態にあった中で、反乱を起こしてニケフォロス3世ボタネイアテスを退位させ、自ら皇帝となった。1118年8月15日
ヨハネス2世コムネノス“カロ・ヨハネス”
(心美しきヨハネス)
Ιωάννης Β' Κομνηνός o Καλος
1087年9月13日1118年8月15日 - 1143年4月8日アレクシオス1世コムネノスの子。1092年に共同皇帝となる。1118年、父の死により皇帝として即位。1143年4月8日
マヌエル1世コムネノス“メガス”
(偉大なる)
Μανουήλ Α' Κομνηνός ο Μέγας
1118年11月28日1143年4月8日 - 1180年9月24日ヨハネス2世コムネノスと皇后エイレーネーの四男。長兄と次兄が1142年に相次いで早世し、三兄が暗愚であるということもあって、1143年の父の死後、皇位継承者として選ばれた。1180年9月24日
アレクシオス2世コムネノス
Αλέξιος B' Κομνηνός
1169年9月10日1180年 - 1183年マヌエル1世コムネノスと2番目の皇后マリアの子。父が死去したために後を継いで即位することとなったが、12歳という幼年であったため、政務は生母のマリアが摂政となって取り仕切ることとなった。1183年10月
アンドロニコス1世コムネノス
Ανδρόνικος Α' Κομνηνός
1123年1183年 - 1185年マヌエル1世コムネノスの従弟。摂政マリアが夫のマヌエルと同じく親ラテン政策を採用したため、国民の間から不満が高まるようになった。この不満を背景にクーデターを起こしてマリアを殺害し、1183年にはアレクシオス2世の共同皇帝となった。そして共同皇帝となってから2ヶ月後にはアレクシオスを殺害し、正帝に即位した。1185年9月12日

アンゲロス朝編集

肖像名称生年と誕生地在位期間即位背景没年
イサキオス2世アンゲロス
Ισαάκιος Β' Άγγελος
1156年9月1185年 - 1195年アンドロニコス・アンゲロスの子。アンドロニコス1世コムネノスの暴虐的な政治に遂に国民の怒りが爆発し、イサキオスを指導者に擁立した反乱軍によってアンドロニコスは虐殺された。そして、国民や貴族の支持を得たイサキオスが、皇帝として即位した1204年1月28日
アレクシオス3世アンゲロス
Αλέξιος Γ' Άγγελος
1156年1195年 - 1203年イサキオス2世アンゲロスの弟。帝国の宰相・元帥に任じられて兄の治世を補佐したが、次第に兄と対立し、1195年にはクーデターを起こして兄を幽閉して廃位し、皇帝として即位した。1211年
イサキオス2世アンゲロス(復位)
Ισαάκιος Β' Άγγελος
1156年9月1203年神聖ローマ帝国に亡命していた息子のアレクシオス4世が第4回十字軍に対して資金援助や東西教会の統一などを条件に味方に引き込み、コンスタンティノポリスに侵攻した。アレクシオス3世は皇位を追われて逃亡し、アレクシオス4世は幽閉された父を助け出して、父と共に共同皇帝として即位した。1204年1月28日
アレクシオス4世アンゲロス
Αλέξιος Δ' Άγγελος
1182年1203年 - 1204年イサキオス2世アンゲロスとアンドロニコス1世コムネノスの娘エイレーネの子。幽閉されていた父を助け出して共同皇帝として即位した。1204年2月8日
アレクシオス5世ドゥーカス“ムルズフロス”
(濃い眉毛)
Αλέξιος Ε' Δούκας ο Μούρτζουφλος
?1204年アレクシオス3世の娘エウドキアの婿。イサキオス2世とアレクシオス4世の復位にあたって第4回十字軍に協力を求めた際に出した条件が過酷な献納金であったため、国民や貴族は両帝を見捨て、1204年1月にまずニコラオス・カナボスなる青年を皇帝候補に擁立した。ムルツフロスはこうした状況を陰で操っていたのであるが、それに気付かなかったアレクシオス4世は彼を十字軍への支援要請の使者に立てる失敗を犯した。ムルツフロスは自ら帝位に登る事を決意し、同月末に即位した。1204年
コンスタンティノス・ラスカリス
Κωνσταντίνος Λάσκαρης
?1204年第4回十字軍にコンスタンティノポリスを攻撃され、アレクシオス5世ドゥーカスが逃亡したあと、首都防衛に活躍していたコンスタンティノスが皇帝に選出された。しかし、コンスタンティノポリスが陥落してしまったために在位たった一晩で逃亡した。このためコンスタンティノス・ラスカリスを皇帝として扱わない場合もある。また、コンスタンティノス・ラスカリスを「コンスタンティノス11世」とし、帝国最後の皇帝を「コンスタンティノス12世」とする場合もある。1211年頃?

ラスカリス朝(ニカイア帝国・東ローマの亡命政権)編集

肖像名称生年と誕生地在位期間即位背景没年
テオドロス1世ラスカリス
Θεόδωρος Α' Λάσκαρης
1175年1205年 - 1222年コンスタンティノス・ラスカリスの弟。コンスタンティノポリス陥落に際し、その直前に即位した兄らと共に首都を脱出した。付き従った一団を率いて、ビテュニアに赴いてニカイアに定住。東ローマ帝国の亡命政権としての「ニカイア帝国」を樹立し、兄から権力を譲られ皇帝に即位。他にも亡命政権は存在したが、後にニカイア帝国が首都コンスタンティノポリスを奪還したため、この帝国が東ローマ帝国の正統政権とされる。1222年
ヨハネス3世ドゥーカス・ヴァタツェス
Ιωάννης Γ' Δούκας Βατάτζης
1193年1222年 - 1254年11月3日軍人。テオドロス1世ラスカリスの後継者に選ばれ、皇女イレーネー・ラスカリナと結婚。義父の死により即位。1254年11月3日
テオドロス2世ラスカリス
Θεόδωρος Β' Λάσκαρης
1221年1254年11月3日 - 1258年8月18日ヨハネス3世ドゥーカス・ヴァタツェスとイレーネー・ラスカリナの子。父の死により即位。1258年8月18日
ヨハネス4世ラスカリス
Ιωάννης Δ' Λάσκαρης
1250年1258年8月18日 - 1261年12月25日テオドロス2世ラスカリスの子。父の死により即位。1305年

パレオロゴス朝編集

肖像名称生年と誕生地在位期間即位背景没年
ミカエル8世パレオロゴス
Μιχαήλ Η' Παλαιολόγος
1225年1261年12月25日 - 1282年12月11日アンドロニコス・ドゥーカス・コムネノス・パレオロゴスとアレクシオス3世アンゲロスの孫娘テオドラ・アンゲリナ・パレオロギナの子。1259年からニカイア帝国の共同皇帝となり帝国を事実上乗っ取る。1261年、最後のラテン皇帝ボードゥアン2世からコンスタンティノポリスを奪回。息子アンドロニコスを共同統治者として、皇帝に即位。1282年12月11日
アンドロニコス2世パレオロゴス
Ανδρόνικος Β' Παλαιολόγος ο Γέρος
1259年3月25日1282年12月11日 - 1328年5月24日ミカエル8世パレオロゴスの長男。父の死により即位。1332年2月13日
ミカエル9世パレオロゴス (共同皇帝)
Μιχαήλ Θ' Παλαιολόγος
1277年1294年 - 1320年アンドロニコス2世パレオロゴスの子。1294年、父から後継者と目されていたため、共同皇帝に指名された。1320年
アンドロニコス3世パレオロゴス
Ανδρόνικος Γ' Παλαιολόγος ο Νέος
1297年3月25日1328年5月24日 - 1341年6月15日ミカエル9世パレオロゴスと皇后マリアの子。素行の悪さから祖父アンドロニコス2世によって帝位継承権を剥奪されると反旗を翻し、7年にわたる内乱の末に祖父を退位に追い込んで皇帝に即位した。1341年6月15日
ヨハネス5世パレオロゴス
Ιωάννης Ε' Παλαιολόγος
1332年6月18日1341年6月15日 - 1376年8月12日アンドロニコス3世パレオロゴスの長男。父の死により即位。1391年2月16日
ヨハネス6世カンタクゼノス
Ιωάννης Στ' Καντακουζηνός
1295年1347年2月8日 - 1354年12月4日ミカエル・カンタクゼノスの息子とミカエル8世パレオロゴスの姉マリア-マルサ・パレオロギナの孫娘テオドラ・パレオロギナ・カンタクゼネの子。摂政権を巡る争いで起きた内乱でオスマン帝国皇帝オルハンの支援を得て勝利し、ヨハネス5世パレオロゴスとの共同統治という形式で正帝として即位。1383年6月15日
マタイオス・カンタクゼノス (共同皇帝)
Ματθαίος Ασάνης Καντακουζηνός
1325年1353年 - 1357年ヨハネス6世カンタクゼノスとミカエル8世パレオロゴスの孫娘イリニ・アサニナ・カンダクジニの長子。父によって共同皇帝・後継者に擁立された。1383年6月
アンドロニコス4世パレオロゴス
Ανδρόνικος Δ' Παλαιολόγος
1348年4月11日1376年8月12日 - 1379年7月1日ヨハネス5世パレオロゴスとヨハネス6世カンタクゼノスの娘ヘレネー・カンタクゼネの長男。1373年にオスマン帝国皇帝ムラト1世の長男サヴジと手を組んだ反乱に失敗し帝位継承から外されるも、1376年にムラト1世の支持を得て起こした再度の反乱でコンスタンティノポリスに皇帝として入城し父と二人の弟を投獄して全権を掌握した。1385年6月28日
ヨハネス5世パレオロゴス (復位)
Ιωάννης Ε' Παλαιολόγος
1332年6月18日1379年7月1日 - 1390年4月14日ヴェネツィア共和国とムラト1世の援助を受け復位。1391年2月16日
ヨハネス7世パレオロゴス (対立皇帝)
Ιωάννης Ζ' Παλαιολόγος
1370年1390年4月14日 - 9月17日アンドロニコス4世パレオロゴスと第二次ブルガリア帝国皇女キラツァ・マリアの子。オスマン帝国皇帝バヤズィト1世ジェノヴァ共和国の支援を受けて祖父を追放して皇帝に即位。1408年9月22日
ヨハネス5世パレオロゴス (復位)
Ιωάννης Ε' Παλαιολόγος
1332年6月18日1390年9月17日 - 1391年2月16日次男マヌエル2世の救援とオスマン帝国の支援によって反撃に成功し、復位した。1391年2月16日
マヌエル2世パレオロゴス
Μανουήλ Β' Παλαιολόγος
1350年6月27日1391年2月16日 - 1425年7月21日ヨハネス5世とヘレネー・カンタクゼネの次男。父の死により即位。1425年7月21日
ヨハネス8世パレオロゴス
Ιωάννης Η' Παλαιολόγος
1392年12月18日1425年7月21日 - 1448年10月31日マヌエル2世とイェレナ・ドラガシュの長男。父の死により即位。1448年10月31日
コンスタンティノス11世パレオロゴス・ドラガセス
Κωνσταντίνος ΙΑ' Παλαιολόγος Δραγάτσης
1405年2月8日1449年1月6日 - 1453年5月29日
(最後の皇帝)
マヌエル2世とイェレナ・ドラガシュの四男(五男)。兄の死後、弟デメトリオスとの間に後継者争いが起きたが、最終的にコンスタンティノスがモレアス専制公領の首都ミストラスで即位。オスマン帝国の侵略から東ローマ帝国を防衛しようとするが、1453年に首都コンスタンティノポリスが陥落、乱戦の中で戦死する。これをもって東ローマ帝国は滅亡する。1453年5月29日

1453年:東ローマ帝国滅亡

脚注編集

注釈編集

  1. ^ ラテン語のインペラートルに相当
  2. ^ ラテン語のアウグストゥスのギリシア語訳
  3. ^ アウトクラトールとセバストスはギリシア訳語として帝政初期以来東方におけるギリシア語碑文や文学作品で用いられていた用語である

出典編集

  1. ^ 井上・粟生沢1998、p.40。
  2. ^ 井上2009、p.297。
  3. ^ 井上2009、p.298。
  4. ^ 井上・粟生沢1998、p.191。
  5. ^ 尚樹1999、pp.403-404。
  6. ^ オストロゴルスキー2001、p.257。
  7. ^ #井上2009p20
  8. ^ オストロゴルスキー2001、p.280。

参考文献編集

  • ゲオルグ・オストロゴルスキー 著、和田廣 訳『ビザンツ帝国史』恒文社、2001年。ISBN 4770410344 
  • 井上浩一、粟生澤猛夫『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』中央公論社、1998年。ISBN 9784124034110 
  • 井上浩一『ビザンツ文明の継承と変容』京都大学学術出版会、2009年。ISBN 9784876988433 
  • 尚樹啓太郎『ビザンツ帝国史』東海大学出版会、1999年。ISBN 4486014316 

関連項目編集

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